HISTORY

奈良県大和郡山市生まれ。
父の仕事の関係で幼少期を奈良、三重、石川、東京、長野、兵庫で過ごす。数年ごとの引っ越しで全く違う地域での生活に戸惑うことも多かった。
東京では運動神経が良いと思っていたが、長野では同級生の身体能力の高さに驚く。転校のたびの一からのスタートは大変だったが、新環境への順応力が身についた。友達との別れは寂しかったが、各地での出来事は貴重な思い出となっている。

兵庫県の中高一貫男子校、甲陽学院に入学。
中学では音楽部と天文部に所属し、3年生で文化部長として初めて予算作成を経験。
高校では天文部で自作プラネタリウム制作に挑戦し、6等星まで表現するためステンレス製ボウルに6000個の穴をあけた。
中高6年間連続で文化祭合唱コンクールの指揮者を務め、高3で総合優勝。全員の団結でクラス力向上を実現し、リーダーシップに自信を得る。
生物が得意で授業免除され自主研究を行い、分子生物学者を志していた。

東京大学理科Ⅱ類合格後、将来への迷いから「やりたくないこと」として応援部に入部。
吹奏楽団でクラリネットとパーカッションを担当。厳しい上下関係や練習は辛かったが、人を応援する充実感にハマる。
選手を信じ続ける応援の精神を学び、厳しい練習で「やればできる」という信念を養う。
マーチングでの一体感は忘れられない体験となった。
最終的に東京六大学連盟吹奏楽責任者を務め、大学の垣根を超えた仲間を得て充実したキャンパスライフを送る。
しかし授業に出ず成績不振で分子生物学者の夢を諦めることになった。

大学3年次に医学部保健学科に進学。
後に日本看護協会会長にもなった見藤隆子教授の授業で看護に興味を持つ。看護は人々に生きる喜びを与え、その人らしく生きることをサポートし、人間を追求する学問であることを知る。
実習で患者との関わりや使命感を持つ看護師の姿を見て看護の素晴らしさを実感し、看護師として働くことを決意した。

新人看護師として聖路加国際病院内科病棟に勤務。
当時男性看護師は精神科か手術室ばかりで内科病棟勤務は極めて珍しく、更衣室もシーツで仕切った廊下の隅で着替える時代だった。受け持ち患者の自宅訪問で病院とは違う姿に驚き、急性期だけでは理想の看護ができないと実感。
病院勤務を続けながら休日等に在宅ケアを実践し、難病・精神疾患・終末期患者宅で泊まり込み、人の暮らしとともにある看護を体験した。

在宅ケアの現場で広がった知人に誘われ東京武蔵野病院に転職。
社会復帰病棟で精神障害者の退院支援や地域生活支援を行い、看護師が中心となって病棟や地域を変革。
年間10人程しか退院しなかった病棟が毎年数100人退院する病棟に生まれ変わり、病院周辺に多くの精神障害者が地域の一員として暮らすようになった。
このダイナミックな体験が臨床看護師としての自信となり、日本の医療・福祉の未来を見通す実践的根拠となっている。

大学の先輩で看護実習指導者でもあった外口玉子衆議院議員の公設秘書となる。
当時は看護師不足、高齢化、医療技術進歩への対応として「看護婦等人材確保法制定」「第2次医療法改正による特定機能病院や療養型病床群の創設」「訪問看護ステーション制度創設」「地域保健法見直し」等、保健医療福祉環境が大きく変化する時期だった。
立法過程に関わり、法律には多くの人の深い情熱が込められていることを知る。
有料老人ホーム問題や廃棄物処理問題等にも取り組み社会課題解決への興味を持つ。
国会・地元秘書を兼務し多忙だったが密度の濃い学びを得た。

日本看護協会調査研究課で診療報酬改定を担当し、精神科急性期治療病棟入院料等の新設に関与。
オンライン説明会や解説書出版により看護管理者の診療報酬に関する意識改革に貢献した。
組織改正後は情報管理課と政策企画室を兼務し業務システムの開発に加えて、世界初の看護団体ホームページを開設、公共ホームページ賞を受賞。
1998年から政策企画室長として診療報酬改定、介護保険制度創設、保健師助産師看護師法改正等の看護政策実現に携わり、政治の力の重要性を実感した。

看護政策実現のため日本看護連盟初代常任幹事に就任。
2005年から幹事長として、組織強化が必要と判断し「リフォーム連盟」を企画・実行した。
都道府県支部の創設、若手看護職のネットワーク「ポリナビ」の創設、政治アカデミー開催、機関誌創刊等で組織活性化を図る。
約10年間で参院選3回、衆院選3回を統括し、信頼に基づく政治関係を基軸に看護連盟を再構築した。
同時に2,000超の医療機関等を訪問し医療者と意見交換。実績が評価され、2012年の総会で組織代表に決定され参議院選挙に臨むこととなった。